南蛮コーナー

臼杵とポルトガルの歴史

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日本と世界の歴史年表

 
西暦 和暦 出来事 
1298〜
1299年
永仁 6年
正安 1年
詩人ルスティチェロ・デ・ピサによって、マルコポーロ「東方見聞録」口述の事実が判明。カタイオの東にある大きな島ジパンゴ(ジパング)の存在がヨーロッパ人によって初めて注目される。 
1502年 文亀 2年 マルコ・ポーロ「東方見聞録」ポルトガル語版、リスボンで出版される。
1514年 永正11年 トメ・ピアス、「スマ・オリエンタル(東方諸国記)」をマラッカにて書き終える。日本に言及されたポルトガル最初の記録である。
1530年 享禄 3年 大友義艦の嫡子として豊後府内城に誕生。
1543年 天文12年

南蛮屏風

ヨーロッパ人の日本初来。種子島にポルトガル人漂着。
1544年 天文13年 日葡交易始まる。これよりポルトガル商人、薩摩及び豊後の港に渡来。
1547年 天文16年 日本人初めてマラッカに上陸す。
1548年 天文17年 日本人初めてゴアに上陸す。日本列島発見の噂流れる。
1549年 天文18年

フランシスコ・シャヴィエル

8月15日
フランシスコ・シャヴィエル率いる初の宣教師一行、鹿児島に上陸す。
1550年 天文19年 大友二階崩れの変発生。
義鑑府内館で卒し、義鎮(宗麟)乱を平定し、跡を継ぐ。
1551年 天文20年

フランシスコ・シャヴィエル

フランシスコ・シャヴィエル豊後に来る。後にヨーロッパ人として初めて京都に入る。
フランシスコ・シャヴィエル、インドに帰る。
1552年 天文21年 豊後の大名大友義鎮の使節、ゴアに到着す。
シャヴィエル、華南のサンシャン島において死去。(12月)
1554年 天文23年 ゴアより大友義鎮へ使節派遣される。
日本人ベルナルド、ポルトガルでイエズス会イルマンとなる。
1555年 弘治元年 ベルナルド、日本人として初めてローマを訪れる。
信濃朝日山の戦いにおいて、武田氏、火縄銃を使用す。
1555年 弘治元年
ルイス・デ・アルメイダ ルイス・デ・アルメイダ、イエズス会に入会。府内に育児院を建てる。
1556年 弘治 2年 豊後出身のパウロとロウレンソ、日本人初のイエズス会士となる。イエズス会士、山口より追放され、府内が布教の中心地となる。
1557年 弘治 3年 ルイス・アルメイダ府内に病院を建てる。
1557年 弘治 3年 ポルトガルの摂政ドナ・カタリーナ、大友義鎮にドン・ジョアン三世の死去を伝え、ポルトガル国王と豊後「王」との友好を確認。
1559年 永禄 2年 ポルトガル船、豊後に来る。この秋、義鎮、府内を開港し、外国人商人に互市を許可。
1562年 永禄 5年
大友宗麟 義鎮、臼杵に丹生島城を築きここに遷る。入道して宗麟と号す。宗麟、臼杵に寿林寺を建てる。
1563年 永禄 6年 大村純忠、初のキリシタン大名となる。
1564年 永禄 7年 臼杵に天主堂が建立される。宗麟は夫人のために臼杵の寺浦に宝岸寺を建立。また祐範上人のために臼杵の大橋寺を建立。
1565年 永禄 8年
南蛮屏風 臼杵に敷地をあたえ、宣教師に会堂を建設させる。
1569年 永禄12年 織田信長、初めてイエズス会士と会見し、京都滞在を許す。
九州制覇をねらう毛利氏が大友氏に敗れ、豊後の勢力、九州で強化される。
1570年 永禄13年 フランシスコ・カブラル新たに日本布教長となる。
1573年 天正元年 宗麟、家督を子義統に譲る。
1575年 天正 3年

火縄銃

南蛮船、臼杵に入港、鉄砲、火薬、玻瑠器、生糸、羅紗、ビロードをもたらし、象1頭、虎4頭、孔雀、オーム等を宗麟に献上する。
1576年 天正 4年

大砲

ポルトガルから大砲到来。これを丹生島城に備えつける。
1576年 天正 4年 有馬の大名有馬義直が受洗。
1578年 天正 6年 宗麟、正妻と離婚
1578年 天正 6年 宗麟、臼杵でカブラルにつき受洗し、ドン・フランシスコと称す。丹生島城内に天主堂が建てられ、町内にキリスト教寺院が建てられた。
1578年 天正 6年 耳川の戦い。(12月)
薩摩の擡頭により、大友氏の勢力にかげりが見えはじめる。
1579年 天正 7年

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

イエズス会士巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ、来日す。
1580年 天正 8年 臼杵にノビシャドを開所
1581年 天正 9年 宗麟は、津久見市天徳寺(切支丹寺)に移る。
1582年 天正10年

天正遣欧少年使節

大友、大村、有馬の切支丹大名は、伊東祐益(マンショ)らをローマに派遣した。(天正遣欧少年使節)
1585年 天正13年 天正遣欧使節、ローマ訪問。
1586年 天正14年

国崩し

宗麟、上坂し秀吉に救いを求める。義統豊前で敗れる。島津軍、日向、肥後方面から、豊後に攻め入る。島津家久は、宗麟のこもる丹生島城に諸軍を進め、先陣は、平清水に陣をとり、7〜800人の兵が控えていた。国崩しが威力を発揮して撃退した。
1587年 天正15年

宗麟の墓

秀吉の軍九州にはいり、島津軍退く。宗麟、津久見にて、死去。(6月6日)
1591年 天正19年 ヴァリニャーノ、長崎に到着。同時に天正遣欧少年使節、帰国(7月)
1600年 慶長 5年 豊後沖でリーフデ号遭難。オランダ船の日本初漂着(4月)
関ヶ原の戦い。徳川家康の全国的支配権ほぼ確立(10月21日)

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